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その名は「フジキセキ」

2009/10/28 10:46:56 | コラム&その他 | コメント:0件

感動するコラムを一つ紹介します。 フジキセキって知ってますか? 1994(平成6)年 朝日杯3歳ステークス フジキセキ 主な勝ち鞍 : 1994年朝日杯3歳ステークス(GI)、1995年報知杯弥生賞(GII)〔当時の表記による〕 通算成績 : 中央4戦4勝 角田 晃一騎手 「フジキセキにはいい夢を見させてもらいました」  頭が真っ白になるほど大きなショックのなかで角田晃一はそう語った。19日前に弥生賞に勝ったばかりのフジキセキが突然引退することになったのだ。競走馬にとって不治の病とまでいわれている屈腱炎を発症したことが原因だった。  ここまで4戦4勝。圧倒的な強さで勝ち星を重ねてきたフジキセキは不動の本命馬としてクラシックに向かうはずだった。角田も皐月賞、ダービーと勝ち進んでいくフジキセキと自分の姿を思い描いていた。それがいまは露と消えてしまった。  しかしそれでも角田が「いい夢を――」というのは偽らざる思いだった。 ほかの馬とは違う  朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)は2歳馬(当時の年齢表記では3歳、以下同)のチャンピオンを決めるレースである。しかしその一方で、翌春のクラシックをめざす馬たちにとっては重要なステップレースのひとつということになる。  フジキセキの場合もそうだった。GIだから勝ちたいのは当然だが、目標はあくまでも皐月賞、ダービーにあった。  フジキセキはデビュー前からクラシックを意識していた馬だった。垢抜けした青鹿毛の馬体は真っ黒に光り輝き、2歳馬なのにすでに古馬のような風格さえ漂わせていた。調教でも桁違いのパワーが目を引いていた。  父は1989年のアメリカチャンピオン、サンデーサイレンス。アメリカの二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)とブリーダーズカップ・クラシックに勝った歴史的な名馬で、90年に1100万ドル(当時のレートで約16億5000万円)という価格で日本に輸入されたのだ。母系の血統が悪いという理由でアメリカの生産者に嫌われ、そのために日本で種牡馬となったのだが、94年の夏にデビューした産駒たちは血統面での評価を覆す走りをみせていた。次からつぎに勝ち上がってくる馬たちはすばらしい才能と可能性に恵まれ、そのなかでも際だっていたのがフジキセキだった。  8月の新潟でデビューしたフジキセキはいきなり大物ぶりを見せつけている。角田は小倉で乗っていたためにこのレースだけは蛯名正義が手綱をとったが、レースは衝撃的なものだった。スタートで大きく出遅れながら、直線で突き抜けて2着に8馬身もの差をつけてしまったのだ。  角田が初めてレースで乗ったのは2戦めのもみじステークスだった。心配されたスタートも問題なく、中団を進んだフジキセキはゆっくりと前に進出し、直線で楽々と抜け出してきた。角田の手綱は抑えられたままで、しかもコースレコードである。1頭だけ次元が違うレースぶりだった。ちなみに、このとき1馬身1/4差で2着に入ったのは、おなじサンデーサイレンス産駒で、ダービー馬となるタヤスツヨシである。  この時点でクラシックの最有力候補という評価が決定的になったフジキセキの陣営が3戦めに選んだのは朝日杯3歳ステークスだった。この年の朝日杯には10頭が出走してきたが、そのうち5頭が2戦2勝と、いつになく好メンバーが揃っていた。しかしそのなかでもフジキセキは単勝1.5倍と、1頭抜きんでた支持を受けていた。2番人気は武豊が騎乗するスキーキャプテンで4.3倍。新馬と京都3歳ステークスを楽勝してきた話題のアメリカ産馬である。 「夢」はもっとずっと先に  ライバルも多かった。強敵もいた。それでも角田はフジキセキが負けることなど微塵も考えていなかった。ほかの馬とはエンジンの排気量が違うというか、規格外のパワーをもっていたフジキセキは、どんな展開になっても、どんなポジションでレースをしても勝てるという自信があった。このとき角田はデビュー6年めの24歳。3年前にはシスタートウショウで桜花賞に勝ち、この年もノースフライトで安田記念とマイルチャンピオンシップを制していたが、牡馬でこれほど乗り心地のいい馬は初めてだった。  唯一懸念されていたのはスタートだったが、3戦めともなればそれも取り越し苦労にすぎなかった。無難なスタートを切ったフジキセキはすぐに4番手という絶好のポジションをキープする。ペースが遅く、抑えるのに苦労するほどだった。それでも角田は安心して乗っていた。  3コーナーを回って徐々に前の馬との差をつめていくと、4コーナーで角田はインコースを突くことにした。安全に外に持ち出す選択肢もあったが、前が開きそうだったので、コースロスが少ない内を選んだのだ。来年のクラシックのことを考えれば、インコースで我慢させながら抜け出すレースを経験させておくことは悪いことではない。  そのままインコースを進んだフジキセキは、前が開くのを待って送った角田のゴーサインに素早く反応する。一気に加速し、前の空間を切り裂くように抜けてくる。抜群のレースセンスをもっていた馬だが、瞬時に加速する能力もまた並外れていた。  この時点でレースは完結していた。  ゴール前では外からスキーキャプテンが猛然と追い込んできてクビ差まで迫ったが、角田はまったく気にしていなかった。手綱はしっかりと抑えられ、鞭は一度も使わなかった。もしこの朝日杯が最大の目標ならば鞭を使って懸命に追ったかもしれないが、角田とフジキセキの「夢」はもっとずっと先にあったのだから。  角田がフジキセキとともに思い描いた「いい夢」は2001年に実現する。馬主も調教師も厩務員もフジキセキとおなじジャングルポケットに乗って、ダービーに勝ったのだ。  ダービーが終わってしばらくして、角田は蛯名正義に声をかけられた。 「フジキセキとどっちが強い?」  フジキセキの“背中”を知るふたりの騎手が、そのときどんな会話を交わしたのか。それは2頭のレースを見たファンがそれぞれの思い出のなかで想像してほしい。 (文中敬称略) 2008.12.21 レーシングプログラム掲載
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